お休み中なのですが大事な話っぽいので1件だけ……
原作者ル=グゥインによる、映画「ゲド戦記」のコメントだそうです。
世間に、
「ル=グゥインが映画を認めた」
という話が出回りつつあるので、
焦って自己の立場を表明したために、
いつになくキツい口調になっているという意見もありますので、
その辺りを勘案しながらお読みください。
いずれにしろ、原作者が満足するような映画を作るのは難しいですね。
「ル=グゥイン作品映画化」としてじゃなく「吾郎第一回監督作品」としてはどうなんでしょう?
ところで、映画はまだ観てないですが、原作は素晴らしいですよ。
大人こそ、必ず読んだほうがいいと思います。
以下、重要だと思う部分を抜粋。
6、7年前、私の友人Vonda N.McIntyre?が となりのトトロのことを教えてくれて、それを一緒に見ました。私は一度で、また永遠にミヤザキのファンになりました。私は彼にはクロサワやフェリーニに匹敵する才能があると思います。
私たちのやり取りの中で、私は、ストーリーやキャラクターへを激しく変えてしまう愚行を警戒して―この本は日本もその他の国も含め、多くの読者に知られているので―私は宮崎氏に、最初の2冊の間の10~15年くらいの期間を使っては、と提案しました。私たちは、その頃ゲドがどうしていたのか、大賢人になったということ以外には知りません、宮崎さんはいくらでも好きなように作っていいですよ、と。(私は彼の他の誰にも、こんな提案はしていません)
駿氏はフィルム・メイキングからはリタイアしようと思っていること、そして、その家族とスタジオは駿氏の息子、吾朗―今まで全く一度も映画を作ったことのない―にこの映画を作らせたい、という説明をされました。私たちは、とてもがっかりし、不安になりましたが、こう説得されました―勿論絶対に、この企画は常にハヤオ氏の認定のもとにすすめます―。この了解によって、私たちは合意をしました。
<中略>
私たちはすぐに、駿氏は映画のどの部分にも全く関わっていないのだと気付きました。
私は、駿氏はリタイアなんて全然しておらず、今は別の映画を作っているところだと聞きました。これは私の失望に追い討ちをかけました。私は、そんなことは知りたくなかった。
そこで、15分の間、すべてのことを公にする精神にのっとり、この映画に対する私の最初の反応を完全に報告することにします。
アメリカと日本の映画制作者は、原作の本を、役名やいくらかのコンセプトのための単なる元ネタとあつかい、そして、文脈を無視して断片を取り出し、ストーリーをまったく異なるプロットに入れ替え、一貫性が失われています。私は、本だけでなくその読者を見下した行為に驚いています。
我々につきまとう闇は、魔法の剣をふるうことでは打ち払うことはできないのです。しかしこの映画では、悪は、簡単に殺すことですべて問題を解決できる、魔法使いのクモというワルモノとして、安直に具現化されました。
現代のファンタジー(文学的なものも政治的なものも)においては、人を殺してしまうことが善と悪の戦いの普通の解決方法です。私の原作では、戦争のようなテーマを表現しませんし、単純な疑問に単純な解答を出すこともしません。
吾朗の想像の中の動物たちは、やさしさにつつまれているように見えます。私は、ラマ馬の表現力豊かな耳が好きです。畑を耕し、水を引き、動物を小屋に入れたりなど、映画に土くささや平穏をあたえるシーンがとても好きです。絶え間ない対立と「アクション(シーン)」とは違うペースに変化させたのはうまく、その中で、少なくとも、私は私のアースシーを実感しました。
米TVドラマ版の制作者たちは彼ら自身が人種差別をしないことを自慢しながら、なんとも素晴らしいことにアースシー世界の有色人種の数を1.5人にまで減らしてしまいました。私はアースシー世界を真っ白にしてしまった制作者たちを強く非難しました。いまだに許してはいません。
欧米人の目から見て、(日本の)アニメ映画に登場する登場人物はほとんど全員白人に見えます。日本人観客はそれら「白人」を白人だと思って見ているわけではない、ということは聞かされました。まだ私よりも日本人観客のほうがジブリ映画のゲドを有色人種として受け入れる可能性が高い、ということも聞かされました。まったくそう願いたいものです。ほとんどのキャラクターは白人にしか見えませんが、タンやベージュ色などのバリエーションはいい感じにばらついているのが救いです。
ゲド戦記 全6冊セット
アーシュラ・K・ル=グウィン