サバイバル登山家
服部 文祥 (著)
なんというか、
「ほー、よくぞそこまで」
と感心するほかありません。
この本は、できるだけ身ひとつで山におもむき、生活に必要なものは山の恵みからゲトりながら登山するという「サイババル登山」という行為を発案し、実践している人の処女作です。
表紙の目つきからしてヤバそうです。
「気がついたら普通だった。それが僕らの世代の思春期の漠然として重大な悩みである。おいしい食べ物や暖かい布団があり、平和で清潔だった。そして僕らはいてもいなくてもかまわなかった(P25)」という冒頭の一文が気に入り、購入しました。
彼は日本の中で普通に生まれて育ち、でも彼は、自分の想像をはるかに超えた、圧倒的に強くて自分の都合を考慮しないものの中に身を置き、そこで生き延びる自分を経験することに強く惹かれていきます。
そこで彼が選んだのが登山でした。黒部やK2(8611m)、知床半島全山単独行などを経験した後、フリークライミング思想(自分の身ひとつで岩を登る。自然に対してフェアに相対する)を取り入れた登山ができないものかと考えるようになっていきます。すなわち……
そして僕は、日本の大きな山塊を歩くのに、できるかぎり道具や他人の干渉を排して、自分の力だけでやってみたいと考えはじめた。
そうして僕はほとんど何も持たずに南アルプスの大井川源流に向かったのである。食料を現地調達し、焚き火をおこし、沢をさかのぼり、藪を漕いで、頂へ。(P36)
と考え、実践し、それを「サバイバル登山」と呼ぶようになりました。
1人で、最低限の装備で登山をする。
例えば、上の南アルプスの11日間に及ぶ山行に持っていったのは、
食料は、米5合、黒砂糖300グラム、お茶、塩、胡椒だけとした。電池で動くものはすべて装備から除いた。時計、ヘッドランプ、ラジオである。コンロと燃料はもちろん持参せず、ついでにマットとテントもおいていくことにした。(P46)
だけ。道々で山菜を採ったり岩魚を釣ったりして糧を得、草を敷いて寝る。そんな生活を送りながら、山の頂を目指します。
ところがこの著者、最初のうちは、そんなに釣りや山菜に詳しいわけではありません。だから上記装備の他に、重くてかさばる「山菜キノコ図鑑」を持ち歩き、目の前の草やキノコを見比べながら、おっかなびっくり食料を確保していきます。魚だって、いくら竿を振っても全然釣れず、お腹はペコペコで死にそう。一方で道中出会った釣り師は100匹も釣っている。
何をするにも、異常に時間がかかります。彼はこのことを、短く、
無知とはそのまま余計な労力なんだということを僕ははじめて実感した。(P48)
能力が出来高に直結する(P65)
とまとめています。
タフで格好いいことなんか、ほとんどありません。雨の中ガタガタと震えて縮こまったり、他の登山者とすれ違えば何か食べ物をもらえないかと卑屈な気持ちになったり、蚊が不快すぎて何もかもイヤになったり、魚の胃袋の中に入っていたカメ虫を食べてしまい口中がカメ虫の匂いだらけになったり。1人で夜の闇の中にいると、どうしようもなく不安になり、うまく眠ることができなくなったりもします。登山のために長期休暇を取りたいと会社に申し入れたら、一時的に解雇されてしまい、残された家族を思い呆然としたりもします。
でも、そういう行動の記録1つ1つを読んでいくと、何故だか、
「うらやましいな。なんかワクワクするな」
という気持ちになります。とても自由でとてもシンプルで、そしてとても発見に満ちていて。彼が少しずつ生命体として強くなっていくのが伝わってきて。
少なくとも男の子は誰でも、1度はこういう山暮らしにあこがれたりするものではないでしょうか?
なるほど登山の効用とはこんなところにあるのだな、と思いました。
既にすっかり文明に慣れてしまった僕らは、今さら昔ながらの生活スタイルに戻れと言われても、できっこありません。
しかし、一方で、今の僕らはあまりにも自然と切り離されているのを感じています。自分の能力、特質、限界と自然との関係を把握することすら、ままなりません。
だから、登山があるのかもしれません。厳しい登山におもむく人たちがいるのかもしれません。自分の今の生活や今の人間関係を切ることなく、一時的に大自然と触れ合うことで、自分の中の自然の部分を再発見してワクワクするために。
そう考えると、以前仕方なくやった1人キャンプも、悪いものじゃあなかったのかもしれませんね。
もちろん、完全に「自分の肉体のみ」という意味でのフェアになりきって登山するのは相当難しいです。どうしたって偽善や自己矛盾は出てきます。いつまで経っても、人は山にとってはゲストです。作者もそれは重々承知していて、しかし、「どこまでも自分の力で山に登ってみたい。(P76)」というシンプルな欲求に従い、できるだけそれに近づこうと、試行錯誤を繰り返しながら、現在もサバイバル登山を続けているとのことです。
星野道夫などの、大自然と真摯に向かい合っている人の文章を読むのが、僕は好きです。彼らは体感から言葉をつむぎだしてくるので、その文体は素朴で太く、才能のある作家が何ヶ月も推古してやっとひねり出すような力強い一文を、サラッと言ってのけるからです。
この本もその例に漏れず、とても読みやすくかつ面白く、ハッとするような一言がたくさんあるので、オススメです。ぜひ読んでみてください。
最後に、僕が特に気に入ったところを、何箇所か引用させていただきます。参考までにどうぞ。
自分なりに待っとくできるレベルになるまでに半分が死ぬ(と僕が想像する)ような世界では無理もない。若い人が山登りから遠ざかるのもわかる。ここにはロマンはあっても、夢が少なすぎる。(P32)
流れてきた毛ハリの周りを疑わしそうに泳いで、食いつかないで戻ってしまう大岩魚。そこに明確な判断基準があるようには思えない。ただ「なんとなく」やめて帰っていく。あさはかな小物が釣れるより、そんな瞬間を見るのは嬉しいものだ。「なんとなく」に救われる生き物たちを見て、僕も「なんとなく」を大切にするようになっていった。(P71)
「サバイバル」といっても、僕らの命を奪おうとする意思をもった何者かが、山のなかにいるわけではない。一方、岩魚は僕らに命をつけねらわれるうえに、反撃の手段はなく、逃げるか食われるかの2通りしかない。人間は生粋のプレデター(捕食者)である。森に住む岩魚を食料とするなら、せめて山のなかで自分に課す負担を多くして、心のなかで岩魚を殺生することを正当化するしかない。(p80)
強くなりたい、そして自由になりたいと思って山に向かっている。だから僕はタープを選ぶ。そして不安な夜に寝返りを繰り返し、虫に刺されてイライラし、自分の弱さが情けなくなる。種としては今より弱くても、個人は今より強かった昔の人々のことを思ってさびしくなる。だが、暗闇に囲まれて臆病な草食動物のように縮こまっているのが山の夜の魅力なのかもしれに。すぐ近くのどこかで小さなケモノが身体を丸めて同じように寝ているかもしれないと思うと、少しだけ暖かい。(p97)
単独行中に足の骨を折ったらどうするのか、と聞かれることもある。まるで単独行が社会の迷惑であるかのような言いぐさだ。野生動物に「もし足の骨を折ったら…」と聞いたら「死ぬしかないから、そうならないように気をつけています」と答えるだろう。
人間が外界と隔絶された空間で生活するようになったのはつい最近のことだ。それ以前は何百万年もずっとずっとわれわれはみんなサバイバーだった。(P101)
彼らが出発の準備をするのを眺めていた。いらない食料が出てくるのではないかと期待していたのだ。だがその気配はないようだった。
「何か食べるもの余ってたりしないかなあ」と、ちょっとおちゃらけて聞いてみた。
冷めた笑いが起こった。なに言ってんのこのおっさん、という感じである。
「お茶ならたくさん余ってますよ」といいながら若者は行動食をもりもり食べていた。
僕は強くなりたい。生命体としてしぶとき生きる力が欲しい。ひとつの生命として強くなりたいと望んだとき、いまのところわれわれができるのは大自然の中に帰ることしかない。(P242)
長くつなげていくということは、僕にとっては重要な要素である。都会の安穏とした生活の余力を残した登山は簡単だ。体の中には栄養価が高くて旨い食い物が循環している。だが、そのぶん山からは遠い。山に長くいれば、体のなかから都会の循環物が排出されて、山の水と山の食料と山の空気が入り込み、僕そのものが山に近くなっていく。それは、ちょっと山に来たお客さんから、そこで生活する生き物に変わっていくということでもある。(250)
人はよかれと思って登山道や山小屋を造ってきたが、それは登山を損なう行為だった。登山はレクリエーションではなく表現行為である。誰でも登れるような山に、少なくとも健全な登山者は行きはしない。(P253)