NHKスペシャル「デジタルネイティブ」のサイトでデジタルネイティブ度を診断したら、高得点すぎて軽く凹んだいちるです。みなさんこんにちは。
この番組も見ました。
全体に通底していたメッセージは「インターネットを使いこなすと、世界中とつながって、今まで想像もしなかったような可能性が次々と開けるよ」みたいな感じでしょうか。
いろんな具体例が出てきて面白かったです。今、世界中で、ネットを介して、
- 世界中の見ず知らずの人と仲良くなっていく
- 学校教育に頼らず、自分の興味のあることをネットでどんどん調べ深く学んでいく
- やりたいことをメッセージとして出して、コミュニティを作る
- これらを、非常に軽快に、ストレスなく行う
みたいなことがたくさん起きているんですって。確かにギズモードの編集をしていても、そういう世界があることは肌で実感しますね。
ただ……この意見に賛成かというと、僕はちょっと懐疑的です。
これって、実際は、
「インターネットを使いこなすと、世界中とつながって、今まで想像もしなかったような可能性が次々と開けるよ」
じゃなくて、
「英語を使いこなすと、世界中とつながって、今まで想像もしなかったような可能性が次々と開けるよ」
じゃないかなー、って。
世界中に流暢じゃない英語でコミュニケーションを取れるエリアが広がった結果、たくさんの人と繋がることができるようになった、という。ネットはそれを加速しているけど、最も基本的なツールはネットじゃなくて英語じゃないか、と感じました。
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と、いうわけで、全然そんなつもりなかったのですが、急に、ここ何日かネットで話題の、「日本語が亡びるとき」とか江島健太郎さんの苦悩とか小飼弾さんの絶賛とか分裂勘違い君の反論とかとテーマが被って困りました。
ここからは急に別エントリーになり、おっかなびっくり本件について自分の意見を書いておきます。といっても「日本語が……」は読んでないので「英語と日本人について」というテーマの作文になりますが。
確かに英語が使えると超ウルトラ便利なのは間違いないのですが……
でもですね、僕個人としては、日本語オンリーなのも悪くない、とも思うのです。
それこそが、今の日本を、狂ったようなガラパゴス的独自性へと導いたんじゃないかと思うからです。
僕は弟がシンガポールに住んでいるので時々行くのですが、「ハリウッドとMTV風味のノリに占拠された」あそこの文化にいると、日本カルチャーの多様な豊かさを強く感じます。
ここで言ってる「カルチャー」は、源氏物語とか夏目漱石じゃなくて、そして一部のオタクカルチャーだけでもなくて、漫画や音楽やファッションや小物や食文化やアートなど全般のことです。いやほんと独特だし、今世界の若者の間で、日本のカルチャーは明らかに独自の地位を築きつつあります。ハマった人にとって日本は羨望の的であり聖地と化しているし、嫌悪している人でも、明らかに「違う」ということだけは判っています。
そして、そこまで独特な先進国って、珍しいです。ギズモードやってると、それが痛いほどよくわかります。
確か80年代くらいは、「個性を伸ばそう」というスローガンが国中を駆け巡っていたような気がしますが、気がついてみれば、日本は世界のどこにもない、オリジナリティ溢れる国となってしまいました。
何故でしょう? 僕は「日本人の多くが英語が苦手」だったのが逆に良かったんじゃないかと考えています。だから世界の潮流と足並みをそろえることが出来なくて、取り残され、こじれにこじれ、発酵して、例えばDenpaみたいなものにまで発展していったんじゃないかと。
英語ペラペラな人も素晴らしいですが、同時に、英語できない人も、もしかしたら上に書いたような意味で、ベクトルは違えど同じくらい素晴らしいのかもしれません。人間万事塞翁が馬で、何が幸いするかわからないですし。
あと、これはただの直感ですが、なんとなく日本って、これからも集合的な無意識というか民族の知恵みたいなものが働いて、結局は英語が話せない相当数の人が残って、日本の独自すぎるノリを維持していくような気がしますけどね。それが時代によって、日本が世界から取り残される原因になったり、世界から注目される原因になったり。いずれにしろ、いつまでも「あそこってちょっと違うよね」という傍流な立場で居続けるという。
よくわからないまま話して恐縮ですが。
日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗 (著)