以下の一節は、僕が昔から、何年かおきに繰り返し読んでいる本、「神話の力(ジョーゼル・キャンベル+ビル・モイヤーズ)」からのものです。
キャンベル:「ショーペンハウエルは、彼のすばらしいエッセイのなかで、次のような問いを提出しています。他者の危機あるいは苦痛を目前にしたとき、人間が即座に、すべてを忘れて、その人のために自分の命を投げ出すことができるのはなぜだろう。われわれがふつう、自然と自己保存の第一の法則と考えられているものが、いったいどうして一瞬のうちに消え去るのか。4、5年前のことですが、ハワイで、この問題を地で行くような珍しい出来事がありました。ハワイに、パリと呼ばれる場所があります。北からの貿易風が山脈の頂から激しく吹いてくるところです。人々は、風に髪をなびかせることを求めて、そこへ登りたがる。あるいは、自殺をしに行きたがる。
ある日、2人の警官が来るまでパリへの道を登っていた。そうしたら、車の転落防止のガードレールのすぐ向こうに、いまにも飛び降りようとしている若い男が見えたんです。車は止まり、助手席にいた警官が飛び出して、男がまさに飛び降りようとした瞬間に彼をつかんだが、その警官も前のめりになり、男といっしょに落ちそうになった。間一髪のところでもうひとりの警官が駆けつけ、2人とも引っ張り上げた。
見ず知らずの若い男といっしょに自分を死の危険にさらした警官に、突然なにが起こったのかわかりますか? 彼の生におけるほかのことは一切――家族に対する義務も、仕事に対する義務も、自分の生命に対する義務も――全て抜け落ちてしまったんです。自分の生涯のための望みや希望も全部消えてしまった。彼は死ぬところだったのです。
あとで新聞記者がその警官にたずねました。「なぜ、手を放さなかったのです? 自分の命があぶなかったのに」。警官はこう答えたそうです。「放すことはできませんでした。もしあの青年をあのまま死なせていたら、わたしは1日たりとも生き続けることはできなかったでしょう」と。なぜでしょう。
ショーペンハウエルの答えはこうです。このような心理的危機は、ある形而上学的なな認識――すなわち、私と他者は一体である、私と他者とはひとつの生命の2つの外見であって、別々に見えるのは、空間と時間の条件下でしか形を経験できないという知能の限界の反映に過ぎない、という認識――が飛び出してきた結果なのだ。人間の真の実在は、あらゆる生命との一体性と調和のなかにある。これが、危機的状況のもとで瞬時に認識されるであろう形而上学的真実です。ショーペンハウエルによれば、それこそ人間の生命の真実だからです。
英雄とは、この真実の覚知に従って自己の肉体的生命を投げ出した者のことです。あなたの隣人を愛しなさいという言葉が持っている意味は、この事実に即して生きなさいということです。だが、あなたが隣人を愛そうと愛すまいと、その覚知があなたをつかんだら、あなたは自分の命を危険にさらすかもしれない。さっき言った警官は、自分が命がけで助けた青年がだれかも知らなかった。
ショーペンハウエルは、同じことが小さな出来事として起こっているのを毎日見ることができる、と言っています。人々は常時、世界のなかで生命を運びながら、おたがいのために無私の行動をとっているのです。」
もちろん、高円寺駅でホームから転落した20歳の女性を、自ら線路に落ちて助けるなどといった行為は、原則的には、「とても危険なので決して真似しないでください」です。今これを書いている僕の感覚からしても「自分だったらやらないだろうな」と思います。
でも、助けた24歳の男性には、あの瞬間に、この、「自分と他者は一体である」という、常識を超えた深みから立ち現れる、崇高で英雄的な、美しい覚知が起きたのかもしれませんね。
そういえばGantzは、こうやって駅のホームに落ちた人を助けて、自分はそのまま死んじゃうところからはじまった話だったなあ。そっか、彼らはあの瞬間に「英雄」になったから、マンションの一室に転送されたのかなあ。
「無我夢中」ホーム転落女性助け、間一髪退避 yomiuri onlineより:15日午後9時15分頃、東京都杉並区のJR中央線高円寺駅で、女性(20)がホームから線路に転落。
近くにいた男性会社員(24)が助けようと線路に降りた。男性は、レール上に倒れていた女性の体を、レールとレールの間に動かし、自分もホーム下のすき間に退避した。
直後に高尾発東京行き快速電車(10両編成)がホームに入ってきたが、2人は無事だった。女性は転落の際に頭を打ったとみられ軽傷。
JR東日本によると同線快速は東京―高尾駅間で約40分間運転を見合わせ、約2万4000人に影響した。
警視庁杉並署によると女性は酒に酔っていたといい、誤って転落したとみられる。男性は「女性を助けようと無我夢中だった」と話しているという。
(2010年2月16日01時03分 読売新聞)
GANTZ
奥 浩哉 (著)
神話の力
ジョーゼフ キャンベル (著), ビル モイヤーズ (著), Joseph Campbell (原著), Bill Moyers (原著), 飛田 茂雄 (翻訳)