村上春樹奇書の二冊目は、村上春樹と村上龍の対談本『ウォーク・ドント・ラン』。1981年の本です。
「村上春樹」と「村上龍」の対談ですよ。おそらく出版当時は「新進気鋭の二人」的な感じで話題になったのでしょうが、今となっては黒歴史の匂いがプンプンします。読まずにはいられません。
ウォーク・ドント・ラン
村上 龍 (著), 村上 春樹 (著)
このころはまだ村上春樹さんはジャズ喫茶の経営が本業でした。そして本を読む限り、時代の寵児は村上龍さんの方でした。
ちょうど傑作『コインロッカー・ベイビーズ』が出た後くらいの対談らしく、コインロッカー・ベイビーズがどう書かれたか(by 龍)、いかに名作か(by 春樹)ということに、多くのページが割かれています。
それと、結構真正面から文学論とか話し合っていたり、二人の距離感や立ち位置が今とはだいぶ違っていて、とても興味深い本に仕上がっています。
本記事は村上春樹さんについての記事なので、その部分を中心に何箇所か紹介します。
でも、まずは、村上龍に感心した話。
龍 ぼくは『ピンボール』と『風の歌』と、『街とその不確かな壁』でしたっけ、あれはね、おそらく対なはずの作品じゃないかと思うわけ。ただ『風の歌』と『ピンボール』がさ、けっこう強固でね。だから、ぼくは裏地としての『街とその不確かな壁』の続編とかね、あれに類するものをもっともっと書いたほうがいいと思うんですよね、僕は、あれだけじゃちょっと弱いし、下手すると見透かされるんじゃないかという気がするんです。もっと違うんじゃないかってぼくは思ってるんですけどね。
春樹 うん、それはある。ちょっと無防備すぎるところがある。
龍 うん。
春樹 ただ、自分ではね、さっぱりしなた、という気がする。
龍 でも、ああいうのをぼくはあと一つ二つ長いので書いて欲しいなという気がするんですけどね。(P106)
結果としては『街とその不確かな壁』は、後に傑作『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』へと書き換えられます。
世界の終わりとハードボイルドワンダーランド
村上 春樹 (著)
あくまでも個人的な理解ですが、この作品こそが『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』や『1Q84』など、今の世界的名声の源泉である、彼独特の「ハルキワールド」の土台となった作品なんじゃないかなと思っています。
一方、『街とその不確かな壁』は、村上春樹さんの意思により、どの短篇集にも収録されない幻の作品になってしまいました。不完全で、イマイチな小説だったわけです。それなのに、この作品の可能性を見抜き、この時点でこの方向を追求することを熱弁する村上龍の凄さ。
動物的直感というか、編集者的視点というか、そういう嗅覚がえらく優れている人なんだなと感心しました。
次は、個人的に大変に腑に落ちた話。
(小説を読む話の中で)
あたり前の話だけど、英語を読むっていうのは日本語を読むのと、ぜんぜんちがうのね。つまり、言葉じゃなくて、記号で書かれた小説を読んでるような気がするわけ。(P25)
とても安心しました。僕も英語の文章を読んでいても、どうも感覚として入ってこず、まるで記号を読んでるような違和感があって「これじゃダメだ。もっと英語力をアップしなくちゃ」と落ち込んでいたんですよね。
英語のテキストは「記号を読んでる」感覚でいいんですね。個人的にコペルニクス的転回でした。
以下は、今の村上春樹さんからはまるで想像できない発言。
春樹 ぼくなんか本職があるから、ものを書いていられる。書くのが専門になっちゃったら、これ、大変だと思うな。
龍 そうでしょうね。
春樹 小説家ってお金もうかると、みんな思ってんのね。小説書いて一発当てて、すごいねっていわれるんだけど、収入なんて……ぼくは商売やってるから、多少は収入があるけど。
龍 たしかに、ぼくは、最初の作品があれだけ売れなかったら、こういうペースでやっていられなかったでしょうね。
春樹 ぼくは、それをほかの仕事で埋め合わせて、ペースをつくっている。
<中略>
春樹 ぼくはどちらかというと、小説は密室的な感じがするから好きなんだね。ただ、それが本職になっちゃうと、とてもじゃないけど耐えられない。そういうのが良いとか悪いとかいうんじゃなくて、性格的な問題です。
いまは書いていますね。まあ、三、四年先も書いてるだろうと思うわけ。ただ、十年先となると、ほんとにわかんない。そういう不安を抱えながら、ものなんて書けないよ。ダメならダメで、飯食っていけるあてがないと、ダメですね。(P43)
あの村上春樹が「小説を本業にするなんて不安すぎて無理」と思っているこの意外性! 最初はハイブリッドワーカーでやっていく予定だったんですね。びっくりです。
そういえば「村上さんのところ」でも、こんな風に言っていますね。
小説を二つ書いて、短編集をひとつ出して、けっこう手応えがあったので、「じゃあ専業作家になろう」と思ったわけです。もしあまり手応えがなかったら、そのまま店を続けていただろうと思います。(source。5月上旬で消えるかもですが)
でも、実際はこんなサラリとした流れじゃなく、かなり考えた上で一大決心をして、専業作家になった。そして不安を克服し作家として長く働けるようになるために、早寝早起き、禁煙、ジョギング、野菜中心の食生活、と、生活パターンの大改造に入った。そういうことなのかな、という気がします(スポーツに関しては、酒場のマスターという肉体労働の延長な気もしますが)。
夏に出るらしい『職業としての小説家』という本に、詳しく経緯が書いてあるんだと思います。楽しみです。
あと、この本でも、奥さんがちょろりと出てきます。例えばこんな感じ。
うちの女房は、落ちるところまで落ちろっていうのね(笑)。ほんとに才能があるんなら、そこから浮かび上がる。ダメならダメで、才能がなかったんだからしょうがない、って。そう言われると開き直っちゃうのね。もう、たたかれてもいいやと思う。もともとダメだったんだから、あきらめりゃいいことでね。(P51)
ほんといい奥さんですね。村上春樹さんの成功は、奥さんとのパートナーシップあってのものなのでしょう。他の多くの成功者と同じく。
あと、以下は村上さん定番の名セリフ。もしかしたら、これが初出なんじゃないでしょうか。
僕、店やってるでしょう、そうするとね、十人来ても、店を気に入ってくれる人は一人か二人だものね。あとはたいして気に入らないわけ。どうでもいいと思う人が五、六人かな。あとの三、四人はやっぱり、いやな店だ、もう来るもんかと思うわけ。<中略>十人に一人、また来ようかなと思った人がまた来てくれれば、店というのは、商売がじゅうぶん成り立っていくわけです。店を始めてね、いちばんに感激したのはそれですよね。十人に一人でいいんじゃないかってさ。これは感動ですよ。小説もそれと同じなんじゃないかなと思う。書けば書くほどさ、悪意を持つ層が拡がっていくわけじゃない。気に入ってくれる人が十人に一人ずつ拡がっていくと、それ以上に悪意を持つ人が十人に三人、四人と広がっていく。(P85)
十人に一人が気に入ってくれればいい。ネットでブログとかTwitterとかFacebookとかShortNoteとか書いてるみなさまも、自分の出したものが思うように受け入れられなかったとき、この言葉を思い出すといいと思います。
あと、以下は衝撃的な告白です。
春樹 ぼくはね、たとえばだれとでも寝る女の子っているわけじゃない、そういう女の子と寝るというのはものすごく落ち着くのね。むかしからそうだったんだけど。
龍 あ、ものすごいですな。
春樹 どっちかっていうとね、好きな女の子と寝るというのはさ、どうも落ち着かないのね、むかしから。不思議だな。(P96)
すごい発言です。今ならスーパー・ノヴァ並の大炎上が起きた上でスポーツ紙のトップを飾るかもしれません。他人ごとながら震えます。
そして、その危険性を察した村上龍さんが素早く身を引いて防御態勢に入っているところも見どころです。相変わらず動物的直感が冴えています。
以下は、村上春樹さんは以外に理系っぽいところもあるんだなという話。
僕は数字にこだわっちゃう部分があるんですよ。<中略>時々、人と人との関係のほとんどは数字で表されるのが一番真実に近いんじゃないかって思うことがあるね。言葉ってのはある意味では偽善的だからさ。耐え難い時がある。(P104)
村上春樹というと、例えばこんな発言にもある通り、
ぼくは数学のたぐいがどうも苦手なので、数式を示されると引いてしまうところがあります。数式のない世界に行くと、ほっとします。(source。5月上旬で消えるかもですが)
文系の横綱っていう印象があったので、意外でした。
でも、この時はお店の経営をやってるわけだから、理系とか数学とかじゃなくて「勘定」する癖がついてた、ということなのかもしれませんね。
以下は、村上春樹さんも揺れてるときがあったんだなというエピソードです。
うちもね、そろそろもう(子どもを)つくろうかなとは考えているんだけど、どうなるのかな。たださ、子ども作るのって女房が家で待ってるよりもっとヤバいって気はするな、少し。これ以上関わりあう人間増やしたくないとも思っちゃうね。(P110)
この辺はセンシティブな話題なので、あれこれと推測を巡らすのは避けます。
ただ一点、「関わりあう人間増やしたくない」というのは、いかにも村上春樹さんっぽいですね。このくらいの歳って、一番人の縁で人生が広がっていくことを実感する時期な気がするのですが、その「人の縁」を増やしたくないというわけですから。
以下は、村上春樹さんは一時期(いや、デビューしてからしばらくの間ずっとかな)「生意気だ」と言われて評論家とか文壇の一部から毛嫌いされ続けてていたそうですが、その理由の一端を垣間見ることができる発言です。
ぼくらの商売(喫茶店とかバーとか)ってのは人に頭を下げる商売なんですよね。ずっと延々頭下げるわけよ。もちろんこれは本当にありがたいと思って頭下げますよ。実際にお金もらえるわけだから。そうするとね、もうあの商売意外では頭下げたくないと思うのね、ほんとにそう(笑)。だからね、ぼく生意気だとよく思われるけど、ま、実際生意気なんだろうと思うんだけど、やっぱりね、頭下げたくないと思うのね。お世話になった方にはね、それは頭下げますが、担当の人とかね、いろいろ。やっぱり一生懸命やってくれてさ、こうしたほうがいいといってくれたりね。それはやっぱり頭下げますよ。ただ、それ以外じゃもう一切頭下げたくないと思うよね。本当にこれは実感なのね。良い子になりたいとはそんなに思わない。だって世の中に良い子なんていないもの。僕だって親切な人間になりたいと思ってさ、いろんな人に金貸したりしたよ。でも一銭だって戻ってこないんだよね。それでひと言「嫌だ」って言えるように一生けんめい自分を訓練したんですよ。だから生意気だと思われても、それはしようがないと思うのね。(P113)
頭は下げないし、「嫌だ」とハッキリ言う。一部の人には、確実に嫌われそうなスタンスです。
彼にとって「頭を下げる」というのは、どういう意味を持っていたのでしょう。引用は控えますが、彼は本書の別のページで、一人っ子である自分にかなり問題を感じているという発言をしていまして、この「頭を下げる」問題は、それと関係があるのかもしれません。頭を下げることに対して、人より過剰に反応するような何かが。
以下は、村上春樹さんの意外な執筆風景についてです。
ぼくは書いてる途中で悪態ばかりつくのね。ちきしょうとか、くそとかさあ。で、女房がおこるわけ、聞くに堪えないってさ。<中略>ほんとにぼくは悪態つくね。英語で言うとfour letter wordsというのがあるじゃない、ああいう感じでね、延々、掛け声みたいなもんなのね。(P120)
これもこの時代ならではなのでしょうね。さすがに今はやっていないような。
それにしても村上春樹らしくない。意外で親近感わきます。
一方で村上龍は……
ああ、だいぶ違うな、おれなんか泣きながら書くね。いい、いいとかいいながらね(笑)。(P119)
さすが時代の寵児かつ、(山田詠美などの)同時代の女性作家にいじられ続けてきただけあります。
こちらもかなり好感が持てる。
最後に、当時の村上春樹さんの未来観というか世界観を。
かなりダークでシビアで、そして予言的です。
ぼくはね、時代はこれからどんどん、どんどん悪くなっていくと思うのですよね、絶対よくはならないと思う。で、どちらでもさ、崩壊というのをいちばん問題にしたいわけだけど、必ず崩壊はくると思うのね。経済的にも精神的にも。そこで小説がどう生き残っていけるかというのがやっぱり問題だと思うのですよ。崩壊をしっかり見届け、精神の再興にはたして小説が寄与できるかといった、角川文庫のことば風なね。(P142)
この考えが、後に「卵と壁」的な考え方にシフトしたんじゃないかと、個人的には思っています。
世界と取り巻く「システム」に対して闘う「個人の尊厳」を応援するために、小説を書くという(ざっくりと意訳しすぎましたが)。
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いかがでしたでしょうか? 近年メディアで語られる「村上春樹」とは、かなり違った角度から光が当たったのではないでしょうか?
この記事での引用は本当にごく一部なので、もしご興味をもたれたら、ぜひ読んでみてください。
今やっている「村上さんのところ」でも、時にはかなりぶっちゃけ、時にはかなりレベルの高い思想を返し、時にはふざけすぎて反省し、時には人生の先輩としてカウンセリングしていて、優しいし喩え話は上手いし、何時間見てても見飽きません。
やっぱあれは才能なんだろうな。才能なんだろうと思うんだけど、でも、ああいうこと書けるその力には、やはり憧れちゃうなあ。文章が上手いって素敵ですね。