電通が「鬼十則」をなくそうとしているのではないか、というニュースを聞いた。
電通、「鬼十則」の社員手帳掲載取りやめを検討 どんな内容?:ハフィントン・ポスト
今回起きた悲劇、そしてその裏にあるだろう、表沙汰になっていない無数の似た悲劇を思うと、見直すのは当然だと思うが、正直、なくすはもったいない、とも思っている。
意外に思われるかもしれないが、実は鬼十則は僕の仕事上のバイブル、いや、十戒だからだ。
鬼十則。就職活動のころから「社会人になったらこういう風に仕事をするのだ」と心をときめかせ、そして社会人になり何度も現実に面食らいながら、鬼十則を机に貼り、いくどとなく読み返し、自分の芯を再確認していた。
鬼十則には、こういう言葉が並んでいる。
- 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない
- 仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない
- 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする
- 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある
- 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……
- 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる
- 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる
- 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない
- 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ
- 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる
僕がいい加減なのは、この鬼十則を、かなり自分勝手に解釈しているところだ。自分が同意できるところだけを、同意できるように受け取っている。
「仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない」と信じ、与えられた仕事は柳にのれんのごとく受け流し、自分で仕事を作ってきた(それを許してくれた周囲には感謝してもしきれない)。
「受け身でやるものではない」という言葉を真に受け、次々とアイディアを出しては成功したり失敗したり失敗したり成功したりした。
「周囲を引きずり回せ」という言葉に励まされ、多少強引かなと心配になることも気合を入れてやることができた。
「自信を持て」というので根拠なく自信を持ったら、(今思うと特段優秀でもない)上司に振り回されずに済んだ。
「八方に気を配って」かつ「摩擦を怖れるな」という2つの言葉から「自分なりにやればいいってことね」という解を導き出し、安心して、自分なりに気配りして、自分なりに摩擦を経験した。
「取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。」の「目的」には「そのプロジェクトなり会社なりを止める/辞める」も含まれると、最初から思い込んでいた。
僕は基本的に、仕事というのは、「自分が世界にどう貢献するのか?」ということだと思っている。だから「◯時から◯時までお仕事して、あとはサヨナラ」という感覚がない。それは仕事ではなく業務ではないのか? せっかく自分の時間の大半を使うのに? もったいなくない? という気がしてしまうのだ。
しかし、人によって、あるいは同じ人でも人生の時期によっては、仕事の割合が、生活時間に置いても、自分の頭の中でも、小さくなる、あるいはせざるを得ないときがあるのも、最近は知っている。そしてそういうときに無理をしても決していい結果にならないのも、よくわかっている。
だから、人それぞれ事情があるのだから、どんな場合でも鬼十則が良いとは言うつもりはない。
けど、鬼十則そのものは、自分が会社や他人から搾取されるロボットにならず、活き活きと自分の人生を作っていくための、ポジティブなメッセージだと思うのですよね。
というわけで、鬼十則は廃止するのではなく、作り変える、あるいは単に今風の言葉に言い直すのが良いと思うのです。
電通って、広告の会社でしょ? 相手が受け取りやすいメッセージを作るのは得意なはず。もしかして今、電通の底力が試されているんじゃないですかね? ここで逃げずに新しい鬼十則を作らないと、迫力も粘りも、そして厚味すらもない、卑屈未練なことになってしまうのではないですかね? 摩擦を怖れてはならないのではないですかね?
……と、なんとなくつぶやいて週末に突入します。明日は子どもたちにダンスを教える日だ。