新卒一年目のことは、今でも鮮明に覚えている。
よく辞めなかったなと、我ながら感心する。
同じようにモヤッている新卒の方々のために、僕の体験談を記しておこうと思う。
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2週間の研修中、僕は同僚からも講師からも、特別な扱いを受けていた。
発想力の自由さ、エネルギッシュさ、親切さなどが特に評価されていた。僕の希望は「サービス企画部」という、文字通り新しいサービスを企画実行する部署だったが、誰もが「いちるは間違いなくサービス企画部だろう」と口にしていた。僕もそう過信していた。
そして、研修最終日。
この最終日が、イコール配属先の発表日だった。夕方に配属が発表され、それぞれの部署の担当者が迎えに来て、その部署に行く。
サービス企画部に行くと思い込んでいた僕は、そのとき、あまり集中も緊張もしていなかった。
そのせいで、その日のその後は、「えっ!?」「えっ!?」と驚くだけで過ぎてしまったことを、覚えている。
配属が発表された。
「清田をメンバーサービス部とする」
メンバーサービス部とは、カスタマーサポートだ。
今でこそカスタマーサポートは、ユーザーデータの宝庫だったり、カスタマーサクセスの起点だったり、インバウンド営業の要だったりするのかもしれないが、当時は違った。
メンバーサービス部は、問い合わせも、そしてクレームも一手に引き受け、完全にそこで処理し、他の部署に影響が及ばないようにする部署。
何かを企画するのとは正反対の仕事だった。
「えっ!?」
と思っている内に、部署の先輩が迎えに来た。
その先輩がまた……なぜその日の服装がそんなだったのかわからないが、アメリカで目撃された宇宙人とクリソツだった。
「えっ!? 誰!?」
事態を受け止める間もなく、僕はメンバーサービス部に連行される。
当時、カスタマーサポートの負荷は日々増大の一途を辿っており、常にお祭りといういか戦争というか、とにかく大騒ぎの状況だった。
そんな「お前なんかに構ってられねえよ。こちとら忙しいんだよ」的な雰囲気の中で、宇宙人はとある席に僕らを連れていき、机の下に潜り込んでいるおじさんのお尻を指さして、こう言った。
「こちらがウチの部の部長です」
えっ!? と困惑していると、お尻がモゾモゾと動き、机の下から、部長と紹介された人が出てきた。
「こんにちは。よろしく」
その部長はTシャツを来ていて、胸には「FREEDOM」と書いてあった。
どうもネットワークの配線をいじっている途中らしかった。部長自ら。
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こうして、僕の地獄の1年間がはじまった。
そもそもやる気がない。だってサービスをバリバリ企画するぞ! と意気込んでいたのに、知らない人からの質問やクレームをただひたすら受ける仕事だったのだから。攻めるつもりが守るのみ、みたいな感じだった。
また、先輩方も強烈だった。当時はまだ、ネットは海のものとも山のものともつかない、謎の何かだった。そんなところにわざわざ入社してくる人は、変わり者に決まっている、という前提がまずあり、かつメンバーサービス部は、その中でも、社内中にその名を轟かす変わり者だらけだった。
たとえば、仕事用のパソコンが支給されたときのこと。
先輩は僕らの机にドンとパソコンを置くと、「好きに触っていいぞ」と指示した。
まずはパソコンに慣れろってことなのだろう。僕たち(新人3人)は、電源を入れたりマウスを動かしたりしていた。
極めて普通にしていたと思う。
なのに。
先程の先輩が急に、
「なにやってんだー!!! お前ー!!!」
と怒鳴り、バーンと灰皿(!)を投げつけてきた。
僕は額から流血した。
「そこにそのフロッピー入れるな―! パソコンぶっ壊す気かお前ー!!」
えーだって「好きに触ってみろ」っていったじゃん、理不尽すぎる……
黒い思いが膨れ上がったが、なにせ配属2日目なので、何も言い返せない。
僕は、「はぁ、すいません……」とだけ言ってそのまま座っていた。
先輩は、「洗面所行って、血を洗い流してこい」とだけ言い捨て、自分の業務に戻っていった。
そのとき、僕が何をしでかしてしまったのかは、未だにわかっていない。たぶん何にも悪いことはしておらず、先輩の虫の居所が悪かっただけなのだろう。
その後も灰皿は、ときどきUFOのようにカッ飛んできた(宇宙人がいたりUFOがあったりで、忙しい部署だ)が、しでかした失敗とそれに対する先輩の怒りのボルテージは、どう考えても比例関係になかった。
こんなこともあった。
灰皿先輩と、もうひとり、いつも怒っている先輩(理由は不明)と、僕の3人で、なぜか焼き肉に行くことになった。嫌な汗が流れるほど緊張した。
2人の先輩は、それぞれグルメを自称していた。
まず、灰皿先輩が「焼肉屋は、最初は必ずこれでなくてはならない」とつぶやきながら、タン塩を焼く。
すると、怒先輩が、激怒した。
「そんな焼き方、タン塩が死ぬだけだろ!」
そして手のひらで、バーンとタン塩をはたき飛ばした(確かに鉄板の上を、手のひらで直に打っていた)。
タン塩は壁にベッタリと貼り付き、僕のメンタルも似たような心持ちになった。
次に、怒先輩がタン塩を焼く。
灰皿先輩は、それを冷笑した。
「その焼き方じゃ、タンが死んじゃうな。なんにもわかってない」
怒先輩は怒った。
灰皿先輩もたぶん怒っている。
それから、2人は同時にタン塩を焼きはじめた。
そしてその2枚を僕の皿の上に置いて、2人同時にこう言った。
「食ってみて、どっちが美味いか教えろ」
・
・
・
言えるわけないじゃないですか!!!
どっちに軍配上げても地獄じゃないですか!
課題難しすぎるじゃないですか!
僕はほとんど物理的に震えながら、タン塩を食べ、沈黙を押し通した。
気まずい焼き肉だった。
——
仕事上でも疑問に思うことは多々あった。
一番謎だったのは、ノウハウやテンプレートを共有しないこと。
先輩(主に灰皿先輩)のポリシーによると、カスタマーサポートというものは、それぞれ独自のサポートしぐさを体得するべきで、他人に頼るべきではない。「全て自助努力」「習うより盗め」ということらしかった。
でも、問い合わせ内容なんて、半分くらいはパターンが決まっているのだ。「NIFTY-Serveに繋がらない」「身に覚えのない請求が来た」「繋がらない」「メールの使い方を教えて」「繋がらない」「パスワード忘れた」。そんなもんだ。
「繋がらない」は、一番よくある質問でありながら、回答が実に難しかった。原因がニフティにあるのか、ニフティが属しているネットワーク(FENICSという名前でした。フェニックス)にあるのか、NTTの電話回線のどこかにあるのか、家庭内の回線やモデムやパソコン、またはそれらを接続している線にあるのか、ソフトにあるのか、OSにあるのか、ユーザーが設定か操作を間違えているだけか。
これらを丁寧に聞きながら、少しずつ原因を解明していく。
死ぬほど面倒くさい仕事だった。
ネットワークやパソコンに関する、さまざまな知識が要求される、高度な問い合わせでもあった。
それなのに……先輩はノウハウを共有してくれない。
テンプレートを作れるレベルだと思うのに、それもない。
「そんなものに頼っていては成長できない」という理由には全然納得できなかったので、勝手にテンプレートの回答文を作って、勝手に社内でシェアした。
僕の作った回答文は稚拙だったので、ぜひとも先輩方にアップデートして欲しかったが、それが実現したのは数年後、「情報共有の価値」が認められてからだった。ネットの会社だというのに……
業務自体もハードだった。ノルマ(「電話何本とる」「メール何通返事する」)も厳しかったし、毎日それを達成するまでは帰れなかった。だいたい、いつも帰宅は22時ごろ。土曜休みは一回おきだったし、年末年始も当番があった。
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ここまで読んで、もしかして「ブラック企業」という言葉が頭をよぎる人もいるかもしれないが、決してそういうわけではなかった。
というか、当時はどの会社もこんなもんだったんじゃないかな? ウチは先輩が個性的だっただけで、上下関係やモラル的なものは、ウチが特別悪いわけじゃなかったと思う。
なにせ、タバコ吸いながら仕事ができた時代だ。ブラック、なんじゃなくて、昭和生まれのベンチャー、ということだったんだと思う。
ただ、先輩方は、本当に強烈だった。
いまだに、あれに匹敵する人々は、稀にしか出会わない。
怒ると灰皿を投げつけてくる、厳しいトレーナーの先輩。
なぜかいつも怒っていて話しかけられない先輩。
とても優しいけど宇宙人ルックで出社する癖がある先輩。
あと、とにかく英語をしゃべりたいので、客でも僕らでも、隙あらば英語で話し出し、場を混乱させる先輩。
熱血が溢れ出ているけど、サポートは嫌いなので、仕事をせず、サポート以外の業務をなんとかして作り出そうと奮闘している先輩。
他部署の人たちからは、廊下やトイレですれ違うたびに「お気の毒さま。頑張ってね」と言われていた。
一方、冒頭に出てきた部長は、後の僕の恩師となるほどに、学びの多い人だった。
自由を絵に描いた人ようなだった。サポート業務は下の人に一任し、自分はひたすらサーバーの設定やネットワークの設定をしていた。おかげでメンバーサービス部は、ニフティの他の部署よりも、最低2年は進んだ最新のネットワーク環境を手にし、とてつもなく快適だった。この点は最高で、僕は勝手にWebサーバーをいじったりホームページを作ったり、2年目以降は、爆発的に増えていくサポート要員のためのツールをせっせと作ったりしていた。
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なぜ僕は辞めなかったのだろう?
当時の同期に聞くと、僕は飲みに行くと「辞める」としか言ってなかったらしい。
でも、特に「期限を決めて頑張る」とかでもなく、普通に辞めず、5年間サポートを勤め上げ、念願だったサービス企画部に行き、新規サービスを企画しまくり、そのうちココログが超大当たりし、日本にブログカルチャー時代を作り……それからは、いろんなインタビューで答えている通りだ。
僕がインタビューでサポート時代の話をすることは、まずない。
話すと闇しかないからだ。
僕が辞めなかった理由は、後付けで考えるといくらでも言えるのだけど、端的に言うと、「今ここでこうしてるのは間違いじゃない」と、心のどこかに確信があったからだと思う。
僕は基本的にキーボードを叩いたりウィンドウを開けたり閉じたりしていれば、ある程度満足するタイプの人間で、この仕事には、その状況がふんだんにあった。
そして、この業界のことをもっと知りたくなっていたし、将来的にサービス企画部に行ける可能性も諦めていなかった。
自助努力と自由を尊重する気風だったので、逆に言うと、やるべきことをやれば、いくらでも「ネットの勉強」という名の遊びができた。
すごくヤバい環境だけど、とはいえ満足する部分もあったので、まあ今日はとりあえず行くか……明日も行ってみるか……で、1年目はこなしたような記憶がある。
他の居場所があったのも大きい。
僕は夏くらいから、MDCというダンスサークルで踊りを教えるようになっていた。
そのサークルは、全く踊ったことのない社会人や、学生時代はダンス部だったけど働くようになってから踊る場がなくなってモヤってる人が集まるところだった。
僕はそこで、当時としては最新のハウスやヒップホップのダンスを教えて、重宝されていた。ときどきイベントもやって忙しかったし、中心人物の一人として敬意を表してくれる人もいた。
これがなかったら、もしかしたら「自分はダメなやつだ。社会人として失格」という呪いに囚われていたかもしれない。
複数の居場所を持ち、複数の側面の自分を持つのは、とても大事だと思う。
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ことし社会人になって、調子いい人も悪い人もいるでしょう。
たいていの人は、その中間、グレーゾーンで、「これでいいんだろうか?」とモヤモヤしているんじゃないでしょうか?
そんな人にアドバイスできるような徳は持ち合わせていないのですが、なにか言うとすると……
「心を開け」
でしょうか?
独自の言い方で理解が難しいと思うのですが、ある意味どうにでもなれ! という気持ちで、自分に嘘をつかず、心を開いて社会と対峙するのが、社会人1年目において学ぶ大事なことかと思います。怖いですが。
心を開く、というのは、あまり気を使わず、素直に言ったり行動したりする、ということです。
躊躇や臆病からはできるだけ目を背ける、ということです。
頭で考えすぎない、ということです。
その結果どうなるかは、人によって違うでしょう。
僕の場合は、大いに好きなこと言って大いに反抗しながら、やるべきこととやりたいことを若さの勢いに任せてやりまくる、でした。
あなたの場合は、どうでしょう?
でも、表面的な言動がどうなるにせよ、根幹では、このスキルは、その後ずっとあなたを守る力になる思います。
さて。
ここには書けないやべー話が、まだあります。
それは、今度会ったときにでも、こっそりと……