自分以外の価値観に気づくのはとても難しい。
最近は、いったん僕が「クラス感」と呼んでいるものに気づいた。ような気がする。
クラス感とは、フォーマルな、上品な、高級な、カッチリとした感じを指す。
「フォーマルな場」とか「高級レストラン」とか「カッチリしているビジネスの場」などで必要とされる服装、態度、言動を、日常のいつでもどこでもおこなう価値観を「クラス感」と呼んでいる。
クラス感を重視する人は、普段からクラス感を意識している。
スーツを工夫して、分厚いビジネス書を読み、フレンチのフルコースや有名鮨屋に行き、ジムでトレーニングを積んでいる。ネットでも、賢明、成功、高級といった、クラス感を感じさせる投稿をする。そして同じ価値観を持つ人たちがコメントを返している。
(ここまで書いて心配になった。誤解しないで欲しいのだが、僕はこのテキストで「クラス感」を馬鹿にしたいわけではない。純粋に感心し、興味を持っているのだ。もし意図に反した読み方ができてしまう箇所があったら僕の表現力が未熟なせいだ。平に謝りたい。)
意識が高いとか金持ちだとかとクラス感とは関係がない。
クラス感のない意識高い言動をする人たちもいるし、クラス感なく高級グルメを謳歌している人もいる。それどころか、クラス感のある日常垂れ流し投稿とか、クラス感のあるネトフリ三昧もある。
これは、僕にとって、とても新鮮な気づきだった。
僕は、リッチなパーティも楽しむし、高級レストランも好きだし、分厚いビジネス書もよく読むし、フォーマルな場ではTPOに合わせるが、このテキストで言うところの「クラス感」には、全く意識を向けてこなかった。
微妙なニュアンスを無視してざっくり言うと、僕はカジュアル系だ。
なんなら僕は無意識の下では「みんな、できればカジュアルに過ごしたいのだろう」とすら感じていた。らしい。
でもそうではない。
そもそもカジュアルなものが好きじゃなく、いついかなるときも「クラス感」を重視する人もいるのだ。
当たり前のことを書いているのは自覚している。
でも、当たり前と無意識に選別せず、自分の腑に落ちる形で自覚することは、全く異なる視点をもたらす。
その上で、もう一歩話を進める。
クラス感のある人は、クラス感のない人を、まさに「クラス感がないから」という理由で、軽んじている。
(公平性のための付記:その逆も然り)
そういえば思い当たるフシがあった。
もう少し仲良く慣れても良さそうなのに今イチお近づきになれなくて不思議……とか、妙に軽んじられてるなあ、と感じるときの何割かは、この「クラス感」という価値観とカジュアルとの食い合わせの悪さが原因じゃないか。クラス感は想定的に見ればただの色眼鏡だが、価値観にドップリと浸かっている人からすると、反対側の価値観は「自分の知っている世界と違う『違和感』」だから(悪気なく)脇に置いてしまう。そういうことが起きていたんじゃないか。
さて、ここまで考えて。
僕は今、クラス感というものに、とても興味をいだいている。
自分もやってみたいと思う。クラス感の中の良いものを、僕は今まで全部スルーしていた。もったいない。
自分に無理のない範囲内で、クラス感を取り入れてみたら、いったいどうなるんだろう?
新しい世界が見えてワクワクするだえろうし、副次的な効果として、恐らく他人の反応が劇的に変わるだろう。
どう変わるのか見てみたい。自分の知人に対しておこなうと人間関係的にリスクがあるから、まずは今まで付き合いのなかった人たちに対して、クラス感を意識した接し方をしてみたい。
クラス感のある生活やクラス感のある交流は、今までとは違った刺激をもたらしてくれるんじゃないかと思う。